聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア “The Killing of a Sacred Deer”

監督:ヨルゴス・ランティモス

出演:コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、
   バリー・コーガン、ラフィー・キャシディ、サニー・スリッチ、
   アリシア・シルヴァーストーン、ビル・キャンプ

評価:★




 ファーストショットが手術中の内臓の大映しだ。相も変わらず、ヨルゴス・ランティモスは観る者の心を不安な領域、不快な領域に持ち込むことが大好き。全編に渡って嫌な画の博覧会状態。同じベッドの上に横たわる妻を眺めての自慰。汚らしいパスタ。聞くに堪えない子どもへの昔話。あからさまで遠慮のない暴力。

 けれど、ランティモスの最終兵器はバリー・コーガンだ。無表情のまま主導権を握り、物語を支配するコーガンは、所作の幼さと狂暴性が抜きん出ていて、激しいアクションを一切挟むことなく、得体の知れない不気味な存在であり続ける。彼が僅かに動く度、物語が悲鳴を上げる。

 『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』は謎めいたコーガンが、外科医を家長とするある一家を翻弄する物語。家長に扮したコリン・ファレルとコーガンの間の因縁が紹介されるものの、あまりそれに意味はない。とにかくコーガンの出現により、子どもたちの脚が麻痺、物が食べられなくなり、遂には目から出血。さて、この事態を切り抜けるために大人たちは何をしなければならないか。

 家族が崩壊していく過程に人間という生き物の下衆な部分、愚かしい部分、残酷な部分がたっぷり炙り出されていく。コーガンが突きつける救済の条件の不条理さなんて可愛いもの、ファレルがぼろぼろに堕ちていく様の異様な気配に、観る者を不敵に巻き込むことを忘れないランティモス。ファレルよ、何故オマエが死なない。オマエが死ねば良いのに。そう一度でも思ってしまったら、その背後ではランティモスが笑みを浮かべている。

 コーガンの前にはファレルもニコール・キッドマンも分が悪いものの、ふたりが狂っていく感じに宿る凄みはさすがヴェエラン。分かりやすいファレルよりも、キッドマンの神経がギリギリのところで揺さぶられる感じが面白い。冷徹で動かない顔面筋肉が、この際効いている。

 …とこれだけ巧みに誘導される話なのに、一切怖くないのは何故か。後に引くものもないのは何故か。それはこの巧みな語りの意図が全て透けて見えるからに他ならない。ランティモスはどこまでも登場人物と自分を切り離して考える人のようで、自分の中に彼らと同じ成分を見ることなく、朽ちていく登場人物を俯瞰で眺めている。登場人物たちの肉体と作り手の肉体の間に接点がまるでないのだ。するとどんな画を並べても、その解釈は頭でっかちなそれになる。映画という芸術ではなく、何かの実験データを差し出されているような、味気ない感覚。映画、或いは芸術が道具にされる冷たさに辟易し、そこで終わりだ。





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