ザ・トライブ

ザ・トライブ “Plemya”

監督:ミロスラヴ・スラボシュピツキー

出演:ヤナ・ノヴィコヴァ、グリゴリー・フェセンコ

評価:★★★




 セリフが出てこない映画は、ひっくり返るほどに珍しいものではない。キム・ギドクの「メビウス」(13年)やミシェル・アザナヴィシウスの「アーティスト」(11年)のような例があるし、喋ることができない人々が出てくる映画は少なくない。そもそも映画が生まれた直後はセリフどころか、音もなかったのだ。だから聾唖者の寄宿学校が舞台となるウクライナ映画『ザ・トライブ』にセリフが出てこないのは、まあ、当然の成り行きだろう。騒ぎ立てることではない。

 ただし、見せ方は秀でている。セリフがなければ表情で見せようというのが自然な流れだろうに、ここではそれがあっさり拒否される。カメラは積極的に顔を撮りに行くことがない。表情に音楽が被さることもない。生け捕りにされるのは、肉体そのものだ。役者の身体の動きを、僅かな揺れを逃すまいとほとんど固定されたカメラで凝視する。

 それにより感じ入るのは、手話を駆使して語る若者たちのスピード感だ。どの俳優も喜怒哀楽の情報を素早く手の周辺に送り込み、その感情を畳み掛ける。すると、それに呼応するかのように、身体の細部が連鎖反応的に動く。映画は動くものと相性が良い芸術だ。肉体のスピードが一見スロウな物語の速度をぐんぐん上げる。

 聾唖者を始め、障害を持った者は特別な人間として描かれがちだ。彼らは不自由なところがあるかもしれない。けれど、それに負けない優しく強い心を持って、健気に逞しく生きている!みたいな。あわよくば、そんな彼らを見習いましょう…などという勘違い甚だしい教訓が掲げられることもある。それに嫌悪感を抱いている(正しい反応だ)者の意思が感じられる。

 若者たちは寮での生活を中心に「王国」を作り上げ、己の場所を見つけ、何ともまあしたたかに生きる。売春ビジネスを筆頭にした社会との繋がりは、余計な熱を排除し、効率性を選んだ結果だ。良い悪いではない。もちろんそれをジャッジなどしない。

 そうした微妙な均衡を守る壁に亀裂が入る原因となるのが、愛やら性欲やらであるところが切ない。頭ではコントロールできない何かの正体は、本能と結びついたそれだった。だからセックスシーンは重要だ。そこには愛はあるのか、歓びはあるのか、等という青臭い問い掛けが意味をなす。グレゴリー・フェセンコとヤナ・ノヴィコヴァ、どちらの身体も、どこか痛い。見えない傷がある。

 確かにここには言葉がある。耳ではなく目から情報が入る肉体言語を信じた青春映画だ。刺々しく、生々しく、ひりひりとした剥き出しの皮膚がナイフで抉られるのに、見入る。





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